なぜ勉強するのか?
私たちの社会は、教育の重要性を声高に主張していますが、勉強に関する実際の技術や教育の技術を持っていません。
これは驚くべきことです。。
あり得ない話のようですが、本当の話です。
学校の技術はあったのですが、それは教育とはあまり関係がありません。
その技術は、どのように学校に行き、どのように教わり、どのように試験を受けるかというものから成り立っていて、教育や勉強に関する実際の技術というものではありませんでした。
このような技術が欠けていたため、人は自分の目標をなかなか達成することができませんでした。
勉強の仕方を知るということは、どんな人にとっても非常に重要なことです。
勉強を始めるために、最初に開かれなくてはならない、ある小さな扉があります。
それは、知ろうという意欲、知的好奇心という扉です。
ゴール設定と同等か、それ以上に重要です。
この扉が閉ざされたままだと、人は記憶だけの、逐語的に覚えるだけの教育システムに入り込んでしまいがちです。
それは、何の知識の向上にもつながりません。
そのようなシステムによって卒業した生徒は、 レコーダーのように言葉を繰り返すことはできるかもしれませんが、
本当の理解が全くなく、あるいは教わったことを使って何かを行う能力がありません。
情報を覚えることはできても、覚え続けることができません。
センター試験を大人になった今、なんの準備もなくただちに受験すると、ほとんどの人がより賢い人に点数で負けるのではなく、18歳の現役だった過去の自分に点数で負けるのがその証拠です。
では、人は何を目的に勉強するのでしょう?
それがはっきりするまで、人は勉強を知的な活動にすることはできません。
ある生徒は、試験のためにだけ勉強します。 その生徒はこう考えています。
「あれを聞かれたら、どうやって思い出して答えようか?」
とか
「どうやったら試験に受かるだろうか?」
これは全くばかげています。
しかし、残念なことですが、これが多くの大学生が行ってきていることで間違いありません。
ここに長年、家の建築に携わっている男の人がいるとしましょう。
ある日その人は、大学で家の建て方を学んだばかりの人をアシスタントとして雇いました。
きっとその男の人は気がおかしくなってしまうでしょう。
なぜなら、学校教育を通して何年も勉強し、学んできた人が家の建築について何も知らないからです。
そしてこの実践をくぐり抜けてきた男の人には、それがどうしてなのか見当がつきません。
理由は、この人が単に試験のために教材を勉強して、大学の課程を経験してきたからです。
その人は家を建てるために勉強はしませんでした。
長い目で見た時、実際に外で仕事をしている人が、そうでない人よりも腕のいい職人になるとは限りませんが、その人は確実に家を建てることができます。
というのも、「家を建てるためにはこれをどう適用したらいいのだろう?」
という質問が、その人の勉強すべての基盤となっているからです。
その人は、広告や読み物、その他のものを手に取った時はいつでも、それを読んでいる間ずっと
「自分のやっていることにどう適用できるだろうか?」と問い掛けているのです。
これが、実践を通した勉強と学校教育での勉強との、根本的かつ重要な違いです。