指導者として教える立場として、自らも学び続ける立場として、
『人に教わるということ』
について、いつも考えます。
大人にとって、自分を教育する最大の責任者は、自分自身であり、
『己を教育しようとしない人に、教育は不可能である。』
と、信じている。学ぶテーマに強く興味があるかないか、必要なのか程度の消極的で、表面的な話ではない。
指導者を10年以上をやっていて、分かったことがある。
教育というものの根本は、指導者も学習者も、人間の可能性を信じるとともに、教育効果を期待してはいけないということにある。
さらにつっこんだことを言えば、
『教育というものは、人間を決して根底から変ええるものではない。』
これが、多かれ少なかれ教育にたずさわる人々によって、不都合で唯一最大のタブーなのかもしれない。
私も含め、自分の職業上の専門職としての立場からも、一種の美談好きの人々を下手に刺激しないためにも、教育によって人間はどんなにも変わり得る、という見解を皆がとろうとしている。
これが幻想であると飲み込むには時間がかかるかもしれない。覚悟がいることかもしれない。しかしながら、これが真実です。
教育によって変わったと見える場合も、それは他人の教育によって変わったのだと私には到底思えない。結論は、それは、その本人の自己教育によって変わったのだと思う。そして、その本人の自己教育に、他人が少々手を貸したにすぎないと考えている。
我々ができることは、究極的な状況と集中力を生み出す「場」になる、「風」になることだけなはずである。
だからこそ、私の中では、教わるということ自体は特別な行動ではないのです。
教わったことを実際に活かしてこそ「特別な行動」になりえる。その特別な行動の成果に到達するまでのプロセス・履歴こそが、価値ある情報だと信じています。
好きな四字熟語で肝に銘じている「知行合一」(ちこうごういつ)があります。
『知って行わないのは、未だ知らないことと同じであること。』
私が教わる場合においては、即実践を徹底的に重視する。
そして、教えてくれた人の想像を超えてこそ真の力だと考えています。
教育とは、自分の不利益になることでも、時には自己をさし出せる程度に、
強く自由で人間として豊かな考え方ができるように、
自分を開発するのを目的とする場所なはずである。
利益になることしかしないのだったら、それは教育でも何でもない。
それは技術にすぎない。
こどもに教育が必要なら、親にも教師にも、それ以前に教育が必要なのである。
自らを教育しつつあるという姿以外に、子供に愛し尊敬される教育の現場はない。
それは教育の結果がうまくいっているかどうか(つまり教師に知識があるかどうか、親が物知りかどうか)ということとは直接関係ない。子供は結果と同時に、しなやかな心でその過程をみているものだ。
人が育つのは、プログラムではなく、プロセス。
伝える、伝わるではなく、生きる。
教えるように、生きているか。
指導に成功したいならば、それが全てである。